41歳からのドクター挑戦

41歳。紛れもないオッサンになった今、大学院後期博士課程へのチャレンジを綴った超私的日記。

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父の死

公聴会の前日、7月19日(金)の朝、父が他界しました。
本人は7月には死ぬからと母に言っていたそうですが、手術から三ヶ月、頑張ったと思います。

晩年の父はお世辞にも理想の父親というわけではありませんでした。
脳梗塞でマヒが残ったせいで思うようにならずイラついたり、自虐的になって母や兄を困らせてばかりいました。
ただ、葬儀にたくさんの親戚や会社時代の仲間が駆けつけてくれて、いろいろ話し聞くと、私の知らなかった父の一面が分かってきて、あらためて人のために尽くしてきたのだなぁ、と思いました。

父は私と同じ次男で、高校卒業後に鳥取市役所に就職したそうです。当時、次男だと婿養子に行かなければいけなかったそうで、それが嫌で、たまたまカルフォルニアで農業をする研修制度があったらしく、農業には興味がなかったのに無理やり渡米したそうです。数年間、カルフォルニアのサンタマリアという町で農業をして、その間に母と偶然知り合って、東京に戻り結婚したそうです。父の実家は地主で裕福だったこともあり、母の家族をずいぶんサポートをしたそうで、叔母がロスに移住する時もいろいろ面倒をみたそうです。

アメリカ時代の話しは本人からあまり聞いたことなくて、それでも一度父が暮らしていたサンタマリアを見たいと思って、叔母と一緒にロスから車でルート101を北上して訪れたことがありました。
サンタマリアは一面ブロッコリーやカリフラワーの畑に覆われていて、町の中心の教会も静かで落ち着いた印象でした。
母から聞いた話ですが、当時は黒人と日本人が農業出稼ぎでたくさん来ていて、Japはバカにされることが多いので、いつもパブで喧嘩をしていて活気があったそうです。
私はサンタマリアに行った後少しして、生のアサリを食べて食中りをして帰国したのですが、その時父から、「もっと強くならないとアメリカでは暮らしていけないよ」と言われて、悔しい思いをしました。

体力第一主義で、勉強も大切だけど最後は体力だぞ、と小さい頃から何度も言われて育ったけれど、結局父には体力では一度も勝てなかった気がします。

生きている間に博士号を取得して、名誉挽回したかったのですが、それは叶いませんでした。

公聴会と通夜が同じ日になったのは単なる偶然だけれど、
冷たくなった父の前で公聴会の報告をした時、「いい思い出になっただろ」と言われたような気がして、最後までやられっぱなしな気がしてなりません。

たくさんの愛情を注いで下さり、本当に有難うございました。
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